□ 赦 原 □

 

 先ほどから院長室では沈黙しか流れていなかった。

 窓に背を向けて樫材の机に座る壮年の男性は、とうに50を越したはずなのに若若しい印象を与えていた。彼がパシエンス修道院の現院長、クレマンだった。清楚な修道院らしく肉のたるみはないが、骨っぽいがっしりした体格で、机を間に挟んで座っている小柄な娘と対照的だった。彼はその娘――ラクリマを灰色の瞳でじっと見ていた。

 クレマンはラクリマが口を開くのを辛抱強く待っていたが、彼女は部屋に入って最初に「私…酷いことを…」と言ったきり、俯いて何も言わなくなっていた。ただ、両手をすり合わせるような洗うような仕草ばかりが目についた。

 ため息をつくのも憚られて、クレマンは何気なく机上のインク壷の位置を動かすと、よく透る声で「私では話しにくいですか」と穏やかに訊いた。言ってから、そういえば帰ってきてからこの子は私と目を合わせていないな、と、今さらながらに気づいた。

 院長は席を立ってラクリマのそばに寄った。手を差し出した瞬間、彼女が身をすくめるのがわかった。

 彼は肩に手を触れるのもやめて言った。「冷えてしまったね。何か温かいものでももらってきましょう」そして部屋から出ていった。

 ラクリマは自分が情けなかった。こんなに心配していただいているのに、簡単な説明ひとつできないなんて。そうは思うものの、先ほどから喉はからからで声は出そうにないし、唇は上下がニカワで貼り合わせたように離れないのだった。

 

 院長はなかなか戻らなかった。

 そのうちにノックの音がして、院長ではなくサラがトレイを片手に入ってきた。何の装飾もない木目剥き出しのトレイの上では、素焼きの器が2つ、湯気を立てていた。

「お茶を持ってきたから」

 サラはトレイを一旦机に置くと器の一つを取り上げ、ラクリマのそばに屈みこんだ。

「少し飲んであったまりなさい」

 そう言って、彼女の両手にお茶の入った器を軽く握らせた。

 ラクリマは目を落として器を見た。指先から熱が伝わるのと同時に、ハーブの香りが立ちのぼった。カミツレだ、と、すぐにわかった。そのやさしい香りに、胸の中が清められたような気がした。

 お茶の表面で涙が一滴跳ねた。

 サラは手近な椅子を引き寄せて座った。

「もしかして泣くのを我慢してた…?」

 ラクリマは俯いたままだった。もう一滴、滴が跳ねた。サラはその様子から目を離さず、顔を覗きこむようにして言葉を続けた。

「我慢しなくていいって、ずっと前に言ったよね?」

 ラクリマは大きく肩を震わせ、初めてまともに顔を上げた。

「でももう私には泣く資格なんか…!」

 そういうそばから大粒の涙が流れ落ちた。やはり泣くまいとするように、彼女はふたたび唇を引き絞った。が、涙を完全に止めることはできないようだった。

「まあ、とにかく今は」と、サラは彼女の手に手を触れた。「お茶をいただきましょう。冷めないうちに」

 それから自分も器を手にとって口をつけた。

 ラクリマはおそるおそる器を持ち上げた。涙の止まらぬまま、ハーブ茶を口にした。

 一口二口と飲むうちに、ふんわりと体が中からあたたまるようだった。彼女はお茶の美味しいことをだれにともなく感謝した。

「いい香り」サラの声がした。「これは去年の春の分?」

 ラクリマは黙ってうなずいた。カミツレはハーブの中でも人気者だった。毎年、花を収穫するころにはたいがい前年のストックはなくなっている。乾燥させたあとで多くはハーブ茶にするのだが、他にも料理の香りつけにしたり風邪薬代わりにしたりする。僅かながら生産される精油は、修道院に幾ばくかの収入をもたらしてもいた。ここ数年、ラクリマはそのハーブの畑に手を入れてきた。最近はずっとご無沙汰しているからどうなっているだろうか、5月にはまた一面に花が咲いてくれるかしらと、彼女は白い小さい花を思い出しながらお茶を飲み干した。

 ふうと一息ついて彼女は膝の上に器を下ろした。少し気分が落ち着いたようだ。だが頬を伝う涙は相変わらず止まらず、今度はそれで困っていた。

 少しして、サラが彼女の手から空の器を引き取って、「もう一杯もらってこようか?」と尋ねてきた。彼女は首を横に振った。

「そう」

 サラは器を2つ、トレイに並べて置いてからラクリマに向き直った。

「少しずつでいいから、何があったのか話してごらん」

 ラクリマはサラを見た。それからようやくこっくりとうなずいた。

 

 私は仲間を捨てて逃げたんです、と、そこから話が始まったので、サラは自分で断片を並べ替え、話を順序立てなければならなかった。聞き終わるまでにかなりの時間を要したうえに、聞き返した途端に再び心を閉ざす恐れがあったためすべて頭の中でやりくしりなければならず、少々骨の折れる作業だった。が、それを終えて、彼女にはようやくこの妹弟子の精神荒廃の理由が掴めたのだった。

(…私だったら)

 どうしただろう、と、サラは考えた。それは考えてもせんないことではあったが、生き残りを賭けて逃げることは、そこまで咎められる選択肢ではないように彼女は感じていた。こうした冒険で一番忌避すべきなのは、それこそ「全滅」である。なぜなら、危険の存在を周囲に知らせずに終わってしまうから。

 それに彼女はこれまでの冒険で、「一人を除いて全滅した」パーティの、その生き残りを何人か見てきた。もちろんそれぞれに差はあったが――そういえば『夢見石』の冒険の、依頼者であるマクレガーがそもそも「生き残り」であったな、と、サラは思い出した――目の前の妹弟子ほどに罪の意識に苛まれていた人間はいなかったように思えた。

 だがこの子は打ちのめされている。ガラナークの少年神官がデスウィッシュを行使して他の全員を生還させ、この子の「生き残り」としての役割までを剥奪してしまった、そのことを差し引いても、必要以上に打ちのめされているとしか思えない。

 といって、ここで「冒険ではそれも致し方ないこと」だの「あなたが生きていてよかった」などと言っても一片の慰めにもなるまい。

 なぜなら、彼女自身がそれを罪と認識しているのだから。

 そしておそらく……彼女は神を呪ってしまったのだ。その呪いも罪として耐え難く覆い被さっているに違いなかった。

「そうだったのですか」

 サラはそう口にして、親しい者としてではなく、一神官としての態度をラクリマに示した。それから心を決めて、彼女に告げた。

「それは罪なことをしましたね」

 ラクリマは一瞬びくりと身体を震わせたようだった。それでも目はサラを真っ直ぐに捉えた。彼女の瞳の中に、本当に僅かではあったが、安堵の色が浮かぶのをサラは認めた。

「…はい」

 ラクリマは静かに俯いた。相変わらず涙を止められないようだった。だがそれはいつもの彼女の泣き方に戻っていた。その様子をしばらく見守っていたサラは、再び語りかけた。

「あなたは大きな過ちを犯した。それでも、ラクリマ、私はあなたを赦します」

 ラクリマが驚いて顔を上げるのが見えた。

「あなたを赦します」

 サラはもう一度、穏やかに繰り返した。

「主もあなたをお赦しになるでしょう。もはや臆することはありません。顔を上げたままでいなさい」

「で、でも、私…」

「私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で義(ただ)しいかたであるから、その罪を赦し、すべての不義から私たちを浄めてくださいます」

 その言葉が聖句の引用であることに気づきながら、ラクリマは何かに怯えるようにおずおずと、
「でも…ゆ…ゆるしていただけるような…罪では…」

「小さき人間の私が赦すものを、慈悲慈愛の神が赦さないことがあると、あなたは言うのですか」

 サラの厳しい言葉に、ラクリマは打たれたようになった。静寂が流れた。そして、先に口を開いたのはサラだった。

「ラクリマ、あなたに告白しますが、私はかつて神を呪ったことがあるのです」

「う、嘘です。サラがそんな…」

「嘘ではありません。確かに、私にも神を呪ったときがあった。けれども、主はそんな私をもお赦しくださいました。だからこそあなたに言うのです、主はあなたをお赦しくださる、と」

 少しの間のあとで、ラクリマはやっと応えることができた。彼女は神への感謝を表して言った。

「…ありがとうございます」

 彼女の心は少しく平静を取り戻したようだった。サラはそっと息を吐いた。私には彼女の心の傷までは治せない。それでも一番危うい局面は去ったと思った。

「…ラクリマ、あなたがどこで何をしても、どんな過ちを犯そうとも、あなたがその罪を告白するならば、私は…私と院長様はあなたを赦すでしょう。ここには必ずあなたの味方がいる。そのことを忘れないで」

 ラクリマはゆっくり肯いた。

 サラは鷹揚に立ち上がった。もう一息吐いて、それから出し抜けに常の口調に戻って言った。

「さて、院長様を呼んでくるか。いつまでも私たちでこの部屋を占拠しておくわけにもいかないからね」

「わ、私、呼んできます。あ、お茶碗も返してきますね」

 そう言って自分も立ち上がりながら、ラクリマは先ほどのハーブ茶の清澄な香りと、やさしい温もりとを思い出した。あのお茶がきっかけを作ってくれたのだ…。でなければ、サラにすら告白できなかったかもしれない。

「あの…お茶をありがとうございました。とても美味しかったです」

 サラは笑ってラクリマに言った。

「お茶を煎れたのは私じゃない、院長様だよ」

「えっ…!?」

「お茶碗は私が戻しておくから大丈夫。お礼を言って呼んでおいで、私の部屋にいらっしゃるから」

 やや急ぎ足で部屋を出ていくラクリマの後ろ姿を見ながら、サラは先刻、自分で煎れたお茶のトレイを持って部屋にやってきたクレマンのことを思い返していた。彼はこう言ったのだった。

「私相手では話せないようだ。済まないが、話を聞いてやってもらえませんか」

 あのときの院長様の情けない顔ときたら…。

 サラはふっと笑った。いつも聖者然とした院長が、ラクリマのことになると狼狽してみせるのが、いかにも人間くさくておかしかった。

 その院長ももうすぐ戻ってくるだろう、今度はいつもの院長らしい顔になって。サラはてきぱきとそこらを片づけると、来たときと同じようにトレイに茶碗を載せて部屋を出ていった。無人の部屋の中に、今は心地よい沈黙が流れていた。

 

(460年2月2日・夜)

 

 

(『ラクリマ・マテリア』より ◆ 2002年8月初出)

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