□ 銀色の世界で 〜ある側面でのプロローグ〜 □

 

「あなたの理想郷はなんですか」

 

 私が彼女と初めて出会ったのは、ディバハとカノカンナを結ぶ街道脇にもうけられた夜営用の広場だった。

 雲間から覗くささやかな月明かりに誘われ、久々の散歩を楽しんでいたときだった。

 彼女は広場の地べたに『ちょこん』という言葉の似合うような愛らしい風情で、小さくなって座っていた。

 しかし、ちらちらとした月光に照らされる彼女とその周囲の光景は、彼女の様子とは正反対ともいえる陰惨なものであった。辺り構わず鉄の臭いが立ちこめ、服と呼ぶのにさえおこがましい布きれを纏った彼女は頭からバケツいっぱいの臓物でも被ったように、髪といい顔といい、全身にどろりと粘着質を帯びた血液と肉片をこびりつかせている。彼女の周囲にも、大量の肉片……おそらく元は人間だったと思しき断片を残したもの……が、散乱していた。

 そんな中に、彼女はいた。見たところ一つとして外傷はない。虚空に目を向けていた彼女は私に気付き、その顔をこちらへ向けた。その、何の感情も見受けられない、瞳。そして放たれる死者の、匂い。だがわかる。彼女は不死者〔アンデッド〕ではない。

 私は彼女に興味を持った。

 彼女が誰であるのかも、今ここでこうしている理由も、今までしてきたことにも、むろん過去にも興味はない。

 ただ……。私と同じ死者の匂いを持つにもかかわらず不死者ではない彼女が、これからどのような生を歩むのか。

 空虚な瞳。空っぽの器のような彼女。

 無垢とは明らかに違う、虚ろな彼女の器が、どんな色で満たされるのか。

 彼女の未来に、興味を持った。

 

 彼女は、理想郷を見つけることが出来るのか…

 

 私は彼女の前まで歩を進め、しゃがんで座ったままの彼女と視線を合わせた。そして声を掛ける。

「あなたの理想郷はなんですか」

 彼女からの返答は無い。代わりに、ずっと彼女の前面を守っている不可視の怪物と、彼女の後ろに身を潜ませている影の怪物が、私に対して殺気を放つのを感じた。

「やめさせた方が良いですよ。その二体の護衛は非常に優秀です。……ここで失うには惜しい」

 私の言葉に、彼女は初めて驚きというには些か曖昧な表情を浮かべた。

「へえ、判るんだ。あなた誰?」

「私は、ピエール・エルキントン。こういうものです」

 私は、彼女に布教用の聖印を彼女の手の中に納めた。彼女は興味なさそうに、だが聖印を眺めている。私は彼女に告げた。

「あなたは、お困りのようですね。しかも困ったことに、その困っていることに気が付いていないようです。あなたの理想郷を探しに出てみることをお勧めします。そうすれば何かが見えてくるかもしれません」

「見える? ……何が?」

「何かが、です。残念ながら、今のあなたの瞳には何も映っていません。この私と同じです。しかし、あなたが理想郷を探す旅に出るのであれば、きっと何かが見えてくるでしょう」

「それって、楽しい?」

 私は言葉でなく、微笑みを持ってその問いに答えた。

 

 ふと気付くと、いつの間にか月にかかっていた雲はきれいに消え去り、辺りは煌々とした銀色に照らされていた。

 彼女は、ぽつりと呟いた。

「……理想郷ってなんだろう?」

 彼女は立ち上がる。

「こう考えてしまうこと自体、すでに感化されているということなのかしら。不思議ね、おじさんの言葉が自然と私の中に入り込んできてしまったみたい」

 髪を滴る血肉を気にも留めず、詠うように呟きながら彼女はフワフワと歩き出した。

 銀色の光の中を歩いてゆく。どこかへ向けて。

 私は彼女の後ろ姿に向けて祈りを捧げた。

 

「あなたの理想郷が見つかりますように…」

 

Fin

 

 

( 2010年10月 書き下ろし)

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