●青の都・本体
 ◆紹介
 ◆1章全文
 ◆3章冒頭

●History & Art
 ◆紹介
 ◆一部抜粋

『青の都駆けめぐり』について、もうちょっとご紹介しましょう。ここではほんの少しだけ、部分的な立ち読みができます。
左のメニューで見たいところを選んでください。
ティムール Timur(1336-1405)

 ティムールは1336年4月8日に、サマルカンドの南、古くはケッシュと呼ばれた町(現シャフリ・サブズ)の近郊ホージャ・イルガルで産まれた。トルコ・イスラム化したモンゴル族のひとつ、バルラース部の一員だった父親タラガイは、息子に「ティムール(鉄)」という平凡な名前をつけた。
 ティムールは若い頃から乗馬と弓を得意とし、武装した騎馬隊を組んで、近隣で略奪をおこなった。戦利品を気前良く仲間に分け与えたので人望が高まり、騎馬隊は300騎に増えたという。この盗賊団の首領として過ごした青年時代に、右手右足に大きな傷を負ったと言われる。(1363年のシースタンでの戦いで負傷したという説もある。)<続く>

ウルグ・ベク Ulugh Beg(1394-1449)

 ティムール朝の第4代君主。在位は1447〜49年と短い。
 ティムールの第4子シャー・ルフの長男であり、ティムールの孫にあたる。
 1405年にティムールが没したとき、跡目争いが起こった。ティムール自身の遺言によれば、彼の長子ジャハーン・ギールの遺子ピール・ムハンマドが跡を継ぐはずだったが、この王子は人々の支持を得ることができず、いちはやくサマルカンドに入場した第3子ミーラーン・シャーの子ハリール・スルターンが一旦その座におさまった。ハリールは1406年にピールの軍隊を打ち破り、主権を獲得したかに見えたが、貴族たちの信任を得られずに、結局在位4年で廃されてしまう。この機をとらえてサマルカンドに軍を進め、名実ともにティムールの後継者の座を手に入れたのが、ウルグ・ベクの父親シャー・ルフ(在位1409〜47)である。<続く>

アリシェール・ナワイー(ナヴォイ) 
(1441-1501)


 アリシェール・ナワイーは、中央アジアの生んだ偉大な詩人のひとりである。中央アジアのチュルク系文学の祖とされており、とりわけウズベキスタンでは絶大なる尊敬を受けている。本名はニザッディン・アリシェールといい、「ナワイー」は詩人としてのペンネームである。古ウズベク語で「美しいメロディ」を意味する。彼はルダーキーやニザーミーなどの善きペルシア文学の伝統を身につけながら、多くの叙情詩、叙事詩、散文を自らの母国語である古ウズベク語で表し、それが表現力においてけっしてペルシア語に劣るものではないことを明らかにした。<続く>

メドレセまたはマドラサ Medrese or Madrasa

 辞書では「マドラサ」となっていることが多い(「メドレセ」はトルコ語の読み)。アラビア語で教育施設のこと。伝統的には、ウラマーを育成するための高等教育施設を言う。マドラサがイスラム世界に普遍的な制度として誕生したのは11世紀。初期のマドラサは単に教師の家だったりしたが、イスラム教の制度化とともに、もっとしっかりした建築計画が必要になってゆく。イスラム世界に広く存在し、小さな町でも一つ以上、大都市になると数十から百を超えるマドラサがあったりした。<続く>

ミナレット Minaret

 モスクに付属する建造物で、ムアッジンが信徒に祈祷の時刻を告げる、いわゆるアザーンをおこなうための高い塔。もっとも、必須のものではないので、小規模なモスクにはついていないことも多い。アラビア語ではマナーラmanara。その語源が「火の場所」であることから、日本では「光塔」と訳されるようだ。沿岸部の灯台、内陸の通商路沿いの物見台や烽火台が、直接の起源だと考えられている。<続く>

モスク Mosque

 歴史
 イスラム教徒の礼拝堂。アラビア語ではマスジドmasjid。「モスク」という呼び名は、ヨーロッパ人がこれを「メスキータ」として輸入してしまい、それがさらに変化したものらしい。
 預言者ムハンマドがメディナに建てた家(622)は、正方形の囲い地で、南側にしゅろの幹の柱によって支えられた屋根付きの場を持っていた。この中庭がイスラム最初のモスクとされた。ムハンマドはそこで礼拝を指揮し、神の啓示を伝え、争いをさばき、行政に指示を与えたという。まさに、その後のモスクの原型である。<続く>

中央アジアのタイル Tiles in the Central Asia

 イスラム世界における陶タイルの歴史は古い。ここでは大きく3期に分けて説明しよう。

前期(8世紀半ば〜10世紀後半)

 8世紀の中ごろ、アッバース朝の軍隊がオクサス川(アム・ダリヤ)以東のペルシアを占領していた中国軍を破ったのをきっかけに、唐代の中国とイスラム世界との文化的接触が始まった。唐の捕虜たちが持ち込んだ工芸技術のなかに陶芸があり、この頃からペルシアでは中国陶磁が珍重されるようになる。<続く>


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