短文のススメ

■短文のススメ

 論文などを書く際には、できるだけ短文を書くことをお奨めします。
 なぜ「短文」なのか? どうして「長文」はイケナイのか? 詳しく知りたいという方だけ、以下の「長文の弊害」の部分をお読みください(いや、ここがかなり長くなっちゃったので‥)。
 それ以外の方は、とにかく「長文を書かない」ことを心がけてください。

 目安として、一文60字以内を目指しましょう

 ただし、この「60字」にきゅうきゅうに縛られる必要はありません。実はこの「60字」、ややキツイ注文です(笑)。私もしょっちゅうこの字数を越えてしまいます。本当は全部60字で収められればいいのですが、全部はちょっと難しいです。だから「60字」は「目標」にしておきましょう。
 60字ということは、25字詰めの原稿用紙なら2行とちょっとに相当します。一文は2行〜3行で切ることを目指し、どんなに多くとも4行(100字)を越える「長文」にするのはやめましょう。

 本当の話、「短い文ならいい」というのではなくて、「簡潔に書く」ことが必要なのです。ただ、「簡潔に書け」と言われても難しいでしょうから、逆に「短文を書く」ことを目指し、それによって「簡潔に書く」スキルを身につけていくといいと思います。

 それでは、ここから先は「長文の弊害」について説明していきます。

■長文は文法的な間違いを誘う

 「長文」は必ずしも「悪文」ではありません。しかし、「悪文になりやすい」ものであることは確かです。

 一文を長々と書いていると、最初に自分が設定した主語(〜は、〜が)を忘れて、最後にそれと対応しない述語(〜だ、〜する)を書いてしまったり、目的語(〜を)に対応する述語(〜する)を書き忘れたりします。
 また、長文になればなるほど、一文中に含まれる文節の数が増え、各文節同士の関係が曖昧になってしまいます。同様に、長くなればなるほど文章の構造が複雑になるため、助詞(「てにをは」)も間違いやすくなります。
 たとえば、次のような文法的問題を抱えた文章を書きやすくなります。

例文1.
ある日、大きな疑惑が発覚して、組織ではなく現場の判断と説明して、証拠が消える日本的な図式を、アメリカでも疑惑に関わる関係者が自殺し、同じパターンをたどる企業が現れた。(83字)

▲問題点1.
 最初に、「疑惑が(主語)+発覚して(述語)」とあるのに、次の節に現れる「説明して(述語)」に対応する主語がいきなり「疑惑」ではなくなっています。「疑惑の対象である企業」という主語を省略した状態で、「説明して」とつなげてしまっているのでしょう。
 絶対的間違いではありませんが、文法的に未熟な文章であると言っていいでしょう。読者を混乱させる元になっています。ここでは「疑惑」を主語としたまま、述語部分を「説明され(る)」とすべきでした。

▲問題点2.
 「日本的な図式を」という目的語を受ける述語がありません。本来、「日本的な図式をたどる」としたかったのでしょうが、続く文節で「同じパターンを」と新たな目的語を出してしまったため、「たどる」は「同じパターン」の方を受けてしまいました。その結果、「日本的な図式」が宙ぶらりんになってしまったわけです。
 「これこれは日本的な図式である。」のように、いったん文章を区切ってから「同じパターンをたどる企業が‥」という構成にした方がよかったでしょう。
 あるいは、どちらか一方の目的語を削除するか、「日本的な図式と同じパターン」のように融合させるかするべきでした。

▲問題点3.
 「アメリカでも」というのがどこにかかるのか、曖昧です。読もうと思えば「アメリカでも関係者が自殺し」という内容と、「企業が現れた」という内容をバラバラに考えて読むことも可能です。つまりこの文章は、「企業が現れた」のがアメリカであるとは限らないという曖昧さを残しているのです。
 他の文節も、どの文節がどの文節にかかる(=形容する)ものなのかが、ひと目ではわかりません。もしかすると「疑惑が発覚して」や「現場の判断と説明して」等の内容は、「証拠が消える日本的な図式」ではなく、「同じパターンをたどる」にかかるのかもしれません。その場合、「日本的な図式」というのは「証拠が消える」だけの内容になるわけです。
 問題点1.と同じく、厳密な「間違い」ではありませんが、文法的に未熟であり、読者を混乱させます。どれがどれにかかるのかをわかりやすくするためには、やはり短めに文を切っていく必要があります。

 上記の問題点をそれぞれ直すと下記のようになります。こうした方が、本来、言いたかったことがよくわかるはずです。

例文2.
ある日、大きな疑惑が発覚して、それは組織ではなく現場の判断と説明される。貴重な証拠がどこかに消え、続いて関係者が自殺する。この日本的な図式と同じパターンをたどる企業が、アメリカでも現れた。

 これらの問題点は、全体を「短文」に分けることでとても直しやすくなります。特に、「どれがどれにかかるのか」という問題については、短文に変えただけでほとんどクリアできるはずです。

■長文は論点を曖昧にする

 先に「長文」に文法的な問題が起きやすいことについて説明しました。しかし、こうした文法問題をクリアしても、つまり「悪文」にならなくとも、「長文」にはある問題があります。
 それは、「長文」にすると「論点の曖昧な文章」になりやすい、ということです。これはエッセイなどの自由作文ではあまり関係ないのですが、論文においては重要な事柄です。

例文3.
 冬季オリンピックの開幕まであと2週間の今日、開催地の米国ユタ州のソルトレークシティーは、ふだんは平和な宗教都市だが、昨年の同時多発テロ以来、治安対策の先頭に立つ司法長官も現地を訪れ、警備の状況を視察するほどテロに備えての「要塞都市」と化しており、皮肉なことに平和の祭典オリンピックが恐怖を持ち込む格好になっている。

 これは悪文ではありません。つまり、「てにをは」の狂いや主語述語の非対応など、文法的に問題のある文章ではありません。
 しかし、読んでみてどうでしょうか? 別に問題はありませんが、なんだか文章全体に締まりがなく、書き手の主旨が曖昧に感じられませんか? また、読むのにちょっぴり時間がかかったり、苦労したりしませんでしたか?(笑)
 実は、原文の新聞記事はこうでした。

原文
 冬季オリンピックの開幕まであと2週間。開催地の米国ユタ州のソルトレークシティーが、テロに備えて「要さい都市」と化している。昨年の同時多発テロ以来、治安対策の先頭に立つ司法長官も現地を訪れ、警備の状況を視察した。ふだんは平和な宗教都市だが、皮肉なことに平和の祭典オリンピックが恐怖を持ち込んでいる格好だ。(朝日新聞、2002年1月26日・夕刊一面より)

 この記事で記者が伝えたいのは、「ソルトレークシティーの警備が異常なまでに厳しいこと=要塞都市と化していること」です(それが良いか悪いかは別にして)。そのことを「司法長官が視察した」ことに触れて、よりリアルに読者に伝えようとしています。また、最後に「平和の祭典がふだんは平和な都市に恐怖を持ち込む」というパラドックスを提示することで、その厳しさを強調しています。
 しかし、上の例文3.では、同じ内容を伝えているにもかかわらず、それらのことがよくわかりません。なぜわかりにくいのでしょうか?

 まずは例文3.を分解してみましょう。

  1. 冬季オリンピックの開幕まであと2週間の今日、
    →原文同様、単なる導入部分
  2. 開催地の米国ユタ州のソルトレークシティーは、
    →主語
  3. ふだんは平和な宗教都市だが、
    →2.の主語を形容しながら、6.と対になってパラドックスを形成するための部分
  4. 昨年の同時多発テロ以来、治安対策の先頭に立つ司法長官も現地を訪れ、警備の状況を視察するほど
    →5.の「要塞都市」ぶりを示すための形容句
  5. テロに備えての「要塞都市」と化しており、
    →2.の主語に対応する述語
  6. 皮肉なことに平和の祭典オリンピックが恐怖を持ち込む格好になっている。
    →3.を受けてパラドックスを形成し、前述の5.を強調する(また問題提起する)

 だいたいこんな感じに考えてもらえればいいでしょう。

<その1> 主語と述語を離しすぎるな

 まず、この例文で一番メインとなるべき部分は、2.と5.です。つまり、「ソルトレークシティーは要塞都市と化している」というのが主文です。原文を見てください。導入部分のすぐ次に、一文で簡潔に示されています。
 例文の方でそれがわかりにくいのは、何よりもまず「主文の主語と述語の間が離れすぎている」からです。あんまり遠くにあるので、どれが述語だかわからず、述語にたどり着いたときには主語を忘れている、といった感じになるのです。こうした問題は、短文では起こりません。

<その2> 一番伝えたいことは最初に簡潔に

 また、原文で「要塞都市化」が論点であることがわかりやすいのは、冒頭でそれをさっさと示しているからです(導入は無視します)。
 「長文」の方は、「Aは、◆だが、■から▲が●●するほど、Bである」のように表現が冗長になってしまい、「AはBである」という命題を原文のようにいち早く示すことができません。全部の要素を一文に入れ込んだために、述語部分を形容句(4.)よりも後ろに置かなければならなかったからです。
 だらだらと説明を書いてから「AはBである」と書くよりも、先に「AはBである」と書いてしまった方が、書き手が何を言いたいのかが伝わりやすいものです(この件については別な項目で詳しく説明します)。

<その3> 単純な思いこみを防ごう

 一般的に私たちは、文章の最後にくる部分が、その文章全体の述語であると考えがちです。この場合で言えば、6.の「恐怖を持ち込む格好になっている」がその部分に相当します。
 しかし、<その1>で触れたように主文は2.と5.であり、文章全体の述語は実は5.の「要塞都市と化している」という方です。文章の構成上、それがわかりにくくなってしまっています。
 原文のように短文で表しておけば、「文章の最後だから『恐怖を持ち込む格好になっている』が重要だ」というような思いこみを引き起こすこともなかったでしょう。

<その4> 何がどこにかかるか曖昧にするな

 原文では上記の4.に当たる部分だけで一文を形成しているため、次の語句がどの部分を形容しているか、迷わずに判断できます。

「昨年の同時多発テロ以来」
「治安対策の先頭に立つ」
「司法長官も現地を訪れ」
「警備の状況を視察」

 しかし、「長文」の方では、これらがどこにかかるのか、判然としません。たとえば「昨年の同時多発テロ以来」という文句が「司法長官も現地を訪れ」や、もっと先の「要塞都市と化している」にかかるように読むこともできます(「治安対策の先頭に立つ」にかかると読むのが正解)。
 他の文節も同様に、どこにかかるか曖昧です。そのため、本来は、「テロ以来、治安対策を取り仕切ってきた司法長官が、自ら視察するほどの熱の入れようだ」という意味合いを伝えるべき部分なのですが、単に「司法長官が現地訪問して視察した」程度の重みしか表せなくなっています。
 これもやはり「長文」ならではの弊害です。短文では、このように、各文節の関係が曖昧になることはありません。

 以上、見てきたように、長文は弊害が多く、特に「論文」の類ではお奨めできません。できるだけ短文を連ねるように心がけましょう。
 もちろん、「何時如何なる場合でも絶対に短文の方が優れている」というわけではありません。「これは、長くなるけれど一文で説明した方がいいだろう」というような内容も確かにあります。しかし、その場合でもできるだけ簡潔に書くことを心がけてください
 短文を書くことや簡潔に書くことを心がけていれば、無駄な長文は自然と減っていくでしょう。

2002.7.5

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