古代のアンデス文明およびマヤ文明を研究する同好会

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2009年2月の定例講座

マヤ文化における塩と水の利用
講師:大越 翼 上智大学外国語学部イスパニア語学科教授

2009年2月21日(土)
東京外国語大学本郷サテライトにて


 大越先生は、歴史学の立場から、征服直前から植民地時代にかけてのマヤ社会研究をされています。スペイン人が書き残した膨大な史料や、先住民が征服後にアルファベットを使って書いたマヤ語文書を分析されるほか、フィールドワークも並行して行われ、今回は、その経験をもとにした、マヤ人の塩や水の利用についてのお話しを伺いました。

1.ユカタン半島北部における製塩について
 ユカタン半島北岸における製塩は、先スペイン期から植民地時代を経て現代まで行われています。植民地を築いたスペイン人も、その質の高さに驚いたくらいです。先スペイン期の塩の流通経路を理解するために北部低地諸都市の分布を調べると、時代によってこれに変化のあったことが分かります。先古典期から古典期前期では、海岸の製塩地には小規模ながらも都市が点在しおり、人々はここに直接塩を求めに行きました。ところが古典期後期には海岸部にはほとんど都市がみられなくなり、内陸にチチェン・イツァーやイサマルといった大都市が栄え、塩の生産・流通もこれらの統制下におかれたようです。この状況は後古典期でも同じで、マヤパンが北部海岸の塩田を管理し、内陸部からの農産物と交換されていました。植民地時代に入ると、塩田は国王の管轄におかれ、地元で消費される以外はヌエバ・エスパーニャ各地の鉱山に送られました。現代でも塩田は維持され、その採取は4、5月に行われますが、採塩方法はほとんど先スペイン期の昔から変わりません。

2. ユカタンにおける水の利用について
 従来、マヤ北部低地では、セノーテを主たる水源にして、その周囲に都市が営まれていたと考えられてきました。しかし実際にセノーテから水を汲み運搬することはかなりの労力を要し、生活用水全てをこれに頼ると考えるには無理があります。人口が増大した古典期後期には、水はセノーテ以外で求められ、一つには井戸の利用がありました。地下水位がさほど深くない所では(およそ5mの深さまで可能)、手掘りのものが多用されました。内陸に入ると地下水位が低すぎるために、井戸が掘れなくなり、そこで使われたのがチュルトゥン(貯水槽)やアグアーダ(貯水池)でした。チュルトゥンは深さおよそ2m位の穴に天水を蓄えるものでゴミを丹念にすくい取れば、1年ぐらいは十分飲用に耐えます。マヤ社会では拡大家族が幾つかのチュルトゥンを保有・管理して、ここから飲料水を得ていたようです。考古学的にも、この貯水槽の使用が爆発的に増えるのは古典期後期であることが証明されていますから、セノーテのない地域でも人々が住むことは可能になりました。
 アグアーダには大きなものが多く、拡大家族だけでは建設することが難しく、やはりこれは都市国家なりの権力によった多人数による建設でした。多くの場合、水を保つために底の部分に敷石をしきつめています。このほかに、雨期の間のみ水をたたえられる小さなアグアーダもあり、これらの施設の研究は、その重要性に鑑み、これからもさらに行われるでしょう。


次回2009年3月21日(土)は佐藤悦夫 富山国際大学准教授による
テオティワカン遺跡の発掘から


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