2011年4月の定例講座
アンデス文明における戦争再考 講師:関 雄二先生(国立民族学博物館教授)
2011年4月16日(土) 東京外国語大学本郷サテライトにて
アンデスの戦争の事例を取り上げると、北海岸サンタ谷のオストラ遺跡(前3500年)には投石に用いられたような石の塚があり、形成期にはいると、図像に首級、血を流した人物などがあらわれます(セチン遺跡、クントゥル・ワシ遺跡)。形成期末期になると、海岸のサンタ谷や山地のカハマルカ盆地では山上に遺跡が築かれ、社会的緊張が高まったと考えられます。
同じ形成期末期、中央海岸北部チャンキーヨ遺跡(前320年~前200年)でも城塞のような建築、川原石、石の棍棒刀、戦争を想起させる土偶、投槍器(アトラトル)が出土しました。調査者のゲッシは、これを祭祀センターとそれを防御する施設としました。考古学者トピックは、儀礼的戦争、ティンクのための施設と別の解釈を示しました。チャンキーヨの場合は、ゲッシ説を支持したいです。その根拠として渡部森哉の考え(アンデス的支配とはワカの支配を通じて人を支配する)をあげます。
しかし、ティンク説も、地方発展期、北海岸モチェ社会(A.D.0年~A.D.700年)には適用可能です。モチェからは武具、殺傷痕のある人骨が出土し、図像には武器を持って戦う人物が描かれ、負者は裸にされています。戦いは一対一で、戦士の服装はほぼ等しく、戦いの痕跡はエル・ニーニョ現象によって堆積した砂層の間にありました。このように、モチェ期には戦争があったが、エリート間での儀礼的な戦いでした。対等な形での暴力行為(戦い)を支配の仕組みに組み込んだのです。
アンデスにおける戦争では、世界観との関連なくしては解釈できません。ワカ争奪型もあればティンク型もあり、考古学コンテクストに応じた解釈が必要です。ワカを取ることで支配に組み込み、社会統合の過程でティンク型が生まれたとも考えられます。アンデスにおける戦争の再考には、このような多角的な視点が必要でしょう。
次回2011年5月21日(土)は松本雄一 先生(アンデス考古学者 イェール大学博士号取得)による
形成期神殿における儀礼行為の実態 − カンパナユック・ルミ遺跡のデータから
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